魂の残り香5(完)

王都近郊の花畑、見渡す限りの花の絨毯を明るい日差しが見守り、緩い風が時折髪を揺らす。

「こんなところに連れてきて、どういうつもりなんじゃ?」

車椅子に乗ったリンドン伯爵を俺はここに連れてきた。車椅子を押すのは老執事だ。その他の護衛には馬車の近くで待ってもらっている。

「これであちらをご覧ください」

俺は望遠鏡をリンドン伯爵に渡した。

「ふむ」

ここからは2つの黒い点にしか見えないが、そちらに望遠鏡を向けた

「こっ、これはっ、まさかっ」

小さく呟いたリンドン伯爵はそれ以降何も言わなくなり、ただひたすら望遠鏡を覗き続けた。

「ふう…」

どれほどの時間そうしていただろうか。望遠鏡を目から外して執事に渡すと、老貴族は車椅子に深く座りなおした。

「これが答えです」

「どういうことなのか、説明してくれるかね?」

リンドン伯爵の俺に対する敵意は消えていた。

「ええ。俺は貴方に呼び出される一週間ほど前にトウェイン男爵から呼び出されておりました」

◇◇◇

「私が殺したのだ」

トウェインはどうやら自嘲しようとしているようだったが、それはうまくいかず、僅かに唇の端が震えただけだった。

「殺した、というのは物騒な話ですね」

「ああ、だが、私がリィサを殺したようなものだ…」

トウェインは懐かしむように目を閉じた。

「リィサは花の好きな女だった。そう、あれは、私達が結婚し、リィサが初めて私の領地に来たばかりの事だった」

そこまで言ってトウェイン男爵の顔が僅かに歪む。

「…あの日、俺は突然湧き出た領内の魔物を討伐せんと戦い、追い詰めていた。部下の中からはもう十分倒したから帰還する案も出ていた。だが、当時男爵位を得て結婚したばかりの俺は血気盛んだった。そしてその上に、新しく領主となった自分を領民に認めてもらいたいという思いで一杯だった。俺の城で留守番をしていたリィサの事が気にならなかったわけではないが、はっきり言ってしまえば魔物の討伐に比べればリィサの事など些事だと考えていたのだ」

男爵は自分のことを言うときに『私』から『俺』に変わっている。だが、そのことには気づいていないようだった。頭を一度振ってさらに続ける。

「だが、リィサは俺の帰還が遅れたことを心配し、わずかな供を連れて花を摘みに森の奥にある沼地へと足を踏み入れた。そこには幸運を呼ぶと言われている花が生えていたからだった。俺の無事を祈って沼地に入った彼女は、そこでリーパーに襲われた」

「…なるほど」

リーパーは有り体に言えば触手型の魔物で、女性は襲われると種付けされることもある。しかし、近づかなければ襲われることもなく、その体液は薬にもなるため討伐されずに残されることも多い。

「魔物が魔物なだけに、襲われた事実を隠すものも多い。彼女も隠そうとした。だが、そもそも隠し通せるものではない。さらに不運なことに、彼女は種付けされていたのだ。……当然、私の知ることとなり、それら一連のショックで彼女は心を病んでしまったのだ」

なるほど。俺は頷く。

「私にできたことと言えば、彼女がリーパーに襲われた事実を一切隠すこと。それくらいだった」

トウェイン男爵は脱け殻となった妻の頬に手を添える。心を病んだ状態では人に会わせることもできなかったのだろう。そして、根も葉もない噂にしても間違った噂なら歓迎ということか。

「では、私の人形は」

「レナード殿の人形は私のいない間の看病と、リィサが寂しくないように話相手をするために購入した。素晴らしい仕事をしてくれたよ」

ふう、とここまで話してトウェイン男爵は息を吐いた。

「私は近々戦争に行くことになった。相手は帝国、おそらくは死ぬだろう。だが、リィサのいないこの世界で俺は生きていくつもりはない」

死を前にしているとは思えないほど男爵の表情は穏やかだった。

「そこでだ。最後に頼みたい仕事は彼女の、リィサの魂の入った人形なのだ」

「さすがにそれは…」

俺もさすがにそこまで手の内を曝け出す訳にはいかない。だが、トウェインは床に膝まずいて俺に頭を下げた。

「頼む。この通りだ。君の仕事はこれまで見てきたが完璧だった。そう、本当に魂の入った人形だった。頼む、ほんの一日でも良い。彼女を最後に花畑に連れていってやりたい。これが私の最後の願いなのだ。死にゆくものの願いをどうか、頼む」

◇◇◇

「お嬢様…トウェイン様…」

望遠鏡を下ろした老執事の目にも涙が浮かんでいた。

「トウェインは病気の感染を防ぐために、と言って私に娘の亡骸を見せることも拒みおった。それにワシとて世間の噂も耳にする。本当に病気だったのか、時間が経てば経つほどにそれすら分からなくなっておった。その上、先日、ワシも長くはないことが発覚したのじゃ。ワシは奴になんとか復讐せんと…」

「ええ、私も彼の噂については少々調べさせてもらいました。私の人形達もたくさん購入されていましたからね。だが、それは違った」

老貴族は頷く。

「分かっておる。いや、今分かった。あの子のあれほど幸せそうな顔を見れば、噂が間違いだったことくらい誰にでもわかる」

「どうされますか?あの男を殺すために彼女を準備しようとされたのでしょう?きちんとナイフはつけてありますよ」

だが、年老いた父親は何も言わず首を振るだけだった。

「じゃが…」

そして、絞り出すように言った。

「あやつはもうすぐ戦場へ行く。…ワシがそれを仕組んだんじゃ」

「ええ。厳しい戦いになると聞いています。彼の命は尽きるでしょう」

俺は煙草を取り出して火をつける。

「くっ、こんなことなら戦場になど行かせず…そうじゃ…今からでも遅くない。ワシが命を懸けてもう一度陛下に陳情すれば…」
「お待ちください。お嬢様の魂は残り1日ほどで消えます」

老貴族の言葉を俺は遮った。

「なんじゃと?」

「よろしいですか?人が死ぬ。すると、魂はこの世界に溶けていきます。私たちを包む水、森、光、風、森羅万象の中に彼女達は溶け込むのです。人形の中にある彼女の魂はそのほんの残り香にすぎません」

「で、では…」

「トウェイン男爵はもちろんご存じです。そして、その上で王命を受け入れたのです」

老貴族の顔がくしゃくしゃになった。

「くっ、そんなことが…うっ…うっ…」

のどかな花畑に場違いな老貴族の嗚咽が響く。

その時、不意に一陣の風が花畑を駆けめぐった。

それはまるで魂達が生者を慰めるような優しい風だった。

俺は二人にも届くことを祈りながら風に溶ける煙を見つめていた。

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