「葵、おいっ、いい加減起きろよ」
「んあ?…ロレンツォさん?おはよございます」
体を揺すられて目を開けると目の前にロレンツォさんの顔があった。
「もう昼過ぎだぜ。メイド服に着替えて降りて来いよ」
(なんだかロレンツォさん、疲れてる?)
着替えた僕が階下に降りてみると、静かな酒場に妙な緊張感が漂っていた。
(?)
なぜか愛想笑いしたヨアヒムさんと苦笑いのロレンツォさんがメイド服を着た見知らぬお婆さんの前で姿勢を正して座っている。
「この人は後宮のメイド長だ。お前は王子付きのメイドとして潜入するから色々と聞いとけ」
ロレンツォさんがそう言うと、なぜか慌てた様子でヨアヒムさんと一緒にどこかに消えていった。
「あ、えっと…」
自己紹介をしたほうがいいのかな、と悩んでいると、お婆さんが杖をついて立ち上がって僕の前に立った。
髪は真っ白で腰も曲がりかけているように見えるけど、その眼光は鋭い。
「アタシは王子の世話係のテレサだよ。坊っちゃんの新しいメイドっていうのはお前かい?」
早口で怒鳴るように言われて面食らった僕はコクコクと頷くことしかできなかった。
すると、ズズイッとお婆さんが背伸びしてまじまじと僕を見つめてくる。
(怖っ、それに近いっ、近いよぉ)
「ふーむ…確かに顔も綺麗だし健康そうだ。そのまま真っ直ぐ立っておれ」
お婆さんが僕の周りをぐるぐると回る。
「ふむ」
正面に立つと、いきなり手が伸びてきて胸が揉まれた。
「うわっ、なっ」
「ふむふむ」
思わず両腕で胸を守る僕の後ろに回ったテレサさんが今度はお尻を掴んだ。
「ぎゃっ、何すんの?」
「ふーむ。えらく若いから心配したが、これなら元気な子が産めそうだわい。お前、名前はなんて言うんだい?」
「えっ?あっ、僕は葵と言います」
「僕?何を言っとるんだい。…はあ、せっかく坊っちゃんの目にかなった娘がこんなだとは」
ため息をついてテレサさんが椅子に座る。僕も座ろうとした瞬間。
『ダンッ』
「ひぃっ」
テーブルに杖が叩きつけられて僕は飛び上がった。
「座って良いとアタシは言ったかい?」
(ええーっ?)
「アタシが今から坊ちゃんに仕えるのに相応しい所作を叩き込んでやるよ。覚悟しなっ」
(なんでぇ?)
「まず、姿勢がなっとらんっ、真っ直ぐ立っておれっ」
『バンッ』
杖がテーブルに叩きつけられる。僕は思わず背筋を伸ばす。
「次は言葉遣いっ、僕なんて言っておっては坊っちゃんのそばにはいられんと思えっ」
「歩き方っ」「お茶の入れ方っ」「座り方っ」
歩くときの歩幅から、お茶の温度、座るときの姿勢まで厳しくチェックされる。
「返事はっ?」
「はっ、はいぃっ」
(ひぃ、なんでこんなっ、ちょっと、ロレンツォさんっ、僕聞いてないっ、聞いてないよぉっ)
どうして逃げるようにロレンツォさんが去っていったのかが分かった。
(今度会ったら絶対文句言ってやるぅっ)
◇◇◇◇
その日の夕方、ロレンツォさんがヨアヒムさんと連れ立って戻ってきた。
「おい?葵…大丈夫か」
怖々といった感じでロレンツォさんが僕の前に座る。
「僕の姿を見て大丈夫だと思うの?」
疲れきった僕はテーブルに突っ伏した顔を持ち上げて恨みのこもった目で睨む。
「あ…ああ、そうだな。スマン」
(スマンじゃないよっ)
ぷいっと横を向いて僕は机に頬づえをつく。
「なあ、葵、ちょっと聞いてくれよ」
僕は不貞腐れたままロレンツォさんの顔をチラっと見た。
目が合うと機嫌を取るようにロレンツォさんは愛想笑いを浮かべる。
「この前言ってた財務卿からの依頼なんだが、早速やることになっちまったんだよ」
テレサさんは話を知らないため、訳がわからないといった顔をしている。
「へー。王宮で何かあったんですか?」
僕の棒読みの質問にロレンツォさんは苦笑いをしたが、テレサさんは王宮という単語にピクっと反応する。
「ああ、連絡が来ない」
「へー」
『ガタッ』
やる気のない僕とは対照的にテレサさんが椅子を倒す勢いで立ち上がると、ロレンツォさんに詰め寄った。
「若いのっ、王宮で何かあったというのは?どういうことなんだい?坊ちゃんは、旦那様は無事なのかいっ?」
あまりの剣幕にロレンツォさんがタジタジになる。
「ええ…あっ、いや、テレサさん、何が起こっているのかは分からないのです。ただ、シーレ卿からもし連絡がなければ王宮まで内密に会いに来いと言われているだけでして…」
それを聞いてテレサさんは何かを考えるように押し黙った。
「そこでだ、葵、この依頼はお前に行ってもらいたい。そもそも王子の傍遣いのメイドとして派遣するつもりだったから、お前の方は前々から下準備が出来ているんだが、シーレ卿の方はさすがに下準備が間に合わんのだ」
「えー」
「そう言うなって、今日は悪かったよ。下手にもう一人潜入させるとなると疑われるかもしれんから、お前だけが頼りなんだよ」
それは分かるけど、僕を置いてテレサさんから逃げた罪は重い。
「うーん」
僕は悩むふりをしていると、ロレンツォさんが手を合わせて上目遣いに僕を見てくる。
「なっ?お菓子買ってやるから、なっ?」
(お菓子って…僕をなんだと思ってるんだよ、そもそもおっさんの上目遣いなんて可愛くもなんともないし)
「なっ、ほらっ、最近新しいケーキ屋が出来たの知らないか?予約しても1ヶ月待ちらしいぞっ」
(ケーキくらいで僕が動くとでも…ん?…1ヶ月待ちのケーキ…?)
ロレンツォさんを横目に見ると、目があったロレンツォさんがさらにまくし立てた。
「そうだっ、それに飯もどうだっ?この街で一番って言われてる店を予約して腹いっぱい食わせてやるからさっ。他の国から貴族や王族も食べに来るって噂の店だぜ?」
(最高のご飯と1ヶ月待ちのお菓子かぁ…)
美味しい料理が目に浮かぶ。
「じゅる…」
「葵、ヨダレ、ヨダレ」
ヨアヒムさんがタオルで僕の口元を拭う。
「なっ、頼む、この通りだ」
頭をテーブルにぶつける勢いのロレンツォさんを見ていると怒るのも可哀想になってきた。
「はぁ、王子の警護兼シーレ卿との連絡係…ということでいいですか?」
僕がそう言うやいなや、ロレンツォさんのさっきまでの苦しそうな態度がコロッと変わってニコニコと笑顔になる。
「やってくれるかっ」
(あれ…?)
「よーしっ、ヨアヒム、予定通りだと皆に連絡をしろっ」
「おうっ」
大きな声でロレンツォさんが指示を出すと、威勢のいい返事をしてヨアヒムさんが外へ出ていった。
(予定通り?あれ?もしかして僕…丸め込まれた?)
「ほれ」
僕がどうも腑に落ちず首をかしげていると、ロレンツォさんが太い指でシルバーの指輪を摘んでこちらに差し出してきた。
「これは?」
受け取って指輪を見ると、シンプルな作りに見えるけど細かい文様が刻まれていて凝った作りになっている。
「この指輪はシーレ卿から預けられていたものでな、これを見ればお前がギルドから来たことが分かるようになっている」
「はぁ…わかりました」
僕は指輪を右手の薬指にはめた。
「いいか、依頼は会いにいくところまでだが、その場で何らかの依頼を受けた場合はお前がその場で決めていい」
「はいはい、分かりましたよ。お菓子と料理忘れないでくださいね」
僕らの会話を黙って聞いていたテレサさんが話に割り込んできた。
「そうと決まればこんなところで油売ってる場合じゃないね、葵、行くよっ」
「げっ」
(そうだった…テレサさんとまた一緒かぁ)
「『げっ』?」
テレサさんの杖が床を『カッ』と鳴らす。
「あっ、いえっ、はいっ、行きますっ、行かせていただきますっ」
◇◇◇
「オヤジ、ありゃ何者なんだい?」
葵と入れ代わりに戻ってきたヨアヒムがロレンツォに訊く。
「今朝王宮からここまで案内したけどよ。途中、尾行を撒くときなんざ、俺でも知らなけりゃ気配を感じねえほどだったぜ?」
「ああ、確かにありゃ単なる婆ぁじゃねえな…んー、テレサ…テレサな…?そういやあ、大昔…『死神のテレサ』とか言われた女の暗殺者がいたとか…いやいやいや、まさか…な」
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