「…僅かだが魔力の痕跡があるな」
ジルは昼間サラとジョシュのいた湖岸にいた。
(かといって、つい先程までいたという訳でもない。ここからどこに行ったか?)
赤く染まった岩肌や砂浜、少し離れた森を順番に眺める。
(日が落ちるまで僅かだな…少し待つか)
ジルがそう考えている間にも徐々に太陽は沈み、あっという間に夜のとばりが下りてきた。
(そろそろいいだろう)
ジルが一度目を閉じて再び開くとその目が金色に輝いた。
(一人、二人…いや、三人いるな)
月明かりの中、ジルの視界には二人の男女と少し離れた所にもう一人の姿がぼんやりと輝くようにして映し出される。
(確か生徒は二人と聞いたが?)
離れた場所の一人からは他の二人のぼんやりした小さな輝きと異なり、禍々しく輝いている。
(この魔力の波動はアスモデウスか。どうやら当たりのようだな。…しかし何をしている?)
三人は森に向かうように立っている。
(さあ、どっちに向かったんだ?)
ジルの意識に呼応して、魔力の痕跡が作り出した人影が動き出した。
(やはり森に入ったか…後を追ってもいいが…)
その時、日が落ちて鋭敏になったジルの感覚に強い魔力が二つ反応した。
(む?)
ジルが振り返って遠くの空をみつめる。
(アスモデウスの波動。これはどういう事だ?一つはラルフ君が仕留めたようだが…)
二人の人影を追うもう一つの人影を見る。
(同じ魔力…なるほど、私とラルフ君はまんまと陽動に引っ掛かったというわけか)
◆◆◆
エルザとモニカは合宿所にほど近い湖岸を探していた。夕暮れ時の日差しが眩しい。
「サラっ、ジョシュっ…もうっ、こんな時にどこに行ったのかしら?」
二人の名前を呼びながらエルザが岩の裏に回り込んだ瞬間。
『キッイィィン』
突然モニカの耳元で激しい音が鳴った。
(これはっ)
「エルザ様っ」
返事がない。
(まっ、まさかっ)
モニカの顔から血の気が引いた。
「エルザ様っ」
腰のレイピアを抜いて岩の裏に回る。しかし、そこには王女の姿がなかった。
「エルザ様っ、エルザ様っ」
モニカは必死の形相で叫び、王女の姿を探すが見つからない。
その時、モニカの頭の中に直接声が響いた。
「うふふふ、王女様の護衛って言っても大したことないのね」
「くっ」
モニカの脳裏にラルフとジルの姿が浮かぶ。
「残念だけど、あの目障りな二人はしばらくは来ないわよぉ。じゃあ、王女様は頂いていくわねぇ」
(まさかエルザ様が標的だったとは…迂闊っ)
「まぁ、あなたじゃ私の場所すらわからないんだもんね。うふふふ、残念でしたぁ。さよならぁ」
「待てっ、エルザ様ぁっ」
しかし、何の返事もなく、エヴァの気配は完全に消えてしまった。
太陽が地平線に沈もうとしている。
カラスの鳴き声が虫の声に変わった。
誰もいなくなった湖岸でモニカが地面に片膝をついて俯く。
しかし、モニカは絶望していたわけでも、自責の念に苛まれていたわけでもなかった。
「……エルザ様、少々お待ちください。このモニカが必ずやお救いします」
モニカが俯いたままブツブツと言葉を紡ぎ始める。
すると月の映った湖が輝き始め、水面から白い霧が突然立ち始めた。
「もっと…もっとよ…」
モニカの言葉に従うように霧が濃くなり、広がっていく。
あっという間に湖に面した森の中まで霧で隠れてしまった。
「そこかっ」
モニカが叫んでナイフを投げる。
『キィンッ』
ナイフが弾かれ、その場所の霧が晴れる。
何もなかった空間にエヴァが姿を現した。エルザを軽々と小脇に抱えたまま周りの霧を不思議そうに見渡す。
「エルザ様…貴様っ、エルザ様に何をしたっ」
ぐったりとしたエルザの姿にモニカが大きな声で怒鳴った。
「ふふ…王女様には眠ってもらっただけよ。でも、精霊を操るだなんて驚いたわ。まさか人間に私を見つけ出すことができるなんてね」
(頭から生えた角と背中の翼、それに真っ赤な瞳…)
エヴァの姿はモニカが読んだことのある本の中の魔族の姿そのものだった。
「その姿…エヴァ、魔族だったのかっ」
「あら?知っているのね…それなら魔族の怖さは十分分かっているはずよね?それなのに戦うだなんて、おかしいわねぇ?うふふふ」
「地の利は私にあるわっ。魔族だろうと誰だろうとエルザ様に手を出す者は許さないっ」
モニカの言葉とともに再び霧がエヴァを覆い隠した。
「ふーん、面白いわね。少しだけ遊んであげる」
『ドサ』
エルザを地面に置いてエヴァは何もない空間から鞭を取り出す。
「強気な護衛のお嬢さんをじっくりいたぶってアタシ好みに調教するっていうのも悪くないわねぇ」
エヴァが目を凝らすとモニカの姿がうっすらと見えた。
「そこねっ」
エヴァが鞭を振るう。
『ヒュンッ』
しかし、鞭の先は霧を切っただけだった。
「あら?おかしいわね…?確かにいたと思ったんだけど」
エヴァが周りを見る。
(ふーん、後ろねっ)
『ビュンッ』
しかし、鞭は再び空を切った。
(あれ?…)
「だから言ったでしょう?地の利は私にあると…」
エヴァの前に現れた影から声がした。
「ふんっ、黙りなさいっ」
鞭が唸る。しかし、やはり当たったと思った瞬間、ユラリ、と影が歪んで消えた。
「ふう…幻覚とは考えたわねぇ。だけど…目で見なければいいだけでしょ?」
エヴァの周囲にいくつもの影が映るが、目を閉じたエヴァは気配を探る。
「まっ、まさかっ」
「だから言ったでしょう?精霊の力で全ての影に気配を与えているのよ。さあ、覚悟しなさいっ」
霧がふわっと動いたかと思うとレイピアが飛び出した。
「くっ」
エヴァは霧の動きを見てギリギリで躱して間合いを取る。
『ヒュンッ』
再び剣が空気を切り裂く音。
「ぎゃっ」
今度は後ろから背中が斬られる。
「くっ…もぅっ、鬱陶しい。そうね…これでどうかしら?」
エヴァがフワッと空中に浮かぶと足元から触手が生えてきた。
そしてその触手はプロペラのように横に回転して周囲を無作為に破壊し始めた。
触手が次々にモニカの影を消していく。
「その程度で…影なんていくらでも作れるのよっ」
モニカの影が再び霧の中に現れた。
「もう勝目はないのよ。姫様を手に掛けようとしたこと、死んで詫びなさい」
モニカの言葉にエヴァが笑い出した。
「うふふふふ」
触手の回転でエヴァを中心に風が起こる。
エヴァの体を中心にして竜巻が霧を巻き込んでいく。
「うふふふふ、あなたの大事な霧が無くなっちゃうわよぉ」
竜巻は霧を巻き込んで空へ昇る。すると、エヴァの数メートル先にモニカの姿が現れた。
エヴァが勝利を確信して笑った。
「やっと見いつけた。うふふふふふふふふっ、うっ」
エヴァの視界が揺れる。
「え…?」
ゆっくりと、景色が横を向く。
『ドサッ』
視界に映る地面が揺れた。
「くっ、なっ、何っ」
自分が倒れたことにようやく気がついたエヴァが、地面に這いつくばってモニカを睨む。
「時間ね」
モニカがエヴァにゆっくりと近づいた。
「これまであなたが吸い続けた霧は何かわかる?今、あなたの体の中から私の精霊が攻撃しているのよ」
「がぁっ、かっ、体がァっ」
「だから言ったでしょう?覚悟をしなさいと…さあ、死ぬ覚悟は出来たかしら?」
「くっ、そぉぉぉぉおおおおおおっ」
エヴァが突然大きな雄叫びをあげた。
「なっ」
叫び声とともにエルザの体が光り始めた。
「何をするつもりっ、くっ、やめなさいっ」
モニカが剣を振り上げる。
「さよなら…王女の可愛い騎士さん…またね…」
エヴァとエルザの姿がぼやける。
『ギャンッ』
振り下ろした剣は地面にぶつかり火花が散る。
王女とエヴァの姿は消えていた。
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